2015年3月5日木曜日

こーじアンテナ!

○ 例の、以前14億円で落札された運慶作の大日如来像だけど、色んな研究機関の研究もして、展覧会などで展示もされて、みんな観覧して、と、ひとしきり色々あって今日やっとこ開眼法要らしい!です。   まぁ色々思う所もあるわけだけど、落札後の展開、段取りは、ちゃんと日本の美術史にも貢献できる形になっていたので、そこはとても偉かったと思う、と一応書きます。   発見された仏像にしてみれば、こんな幸せな話はないと思うんだよな・・・  (僕は12月24日生まれなのであれですが(笑)、めでたいな、とは思う。 2015_3/5 9:07)


○ 「弱虫ペダルGR」で、御堂筋→きもー筋は聞いて大爆笑だったんだがその後の見た目がまさにハマーホラーで「蛇女の恐怖」ばりのハ虫類的変貌ぶりを見せたと思ったのはみんなだよなぁ(爆笑)   ていうか前はきもいエヴァ初号機位で済んでたんだが。毎回涙して見てたんだが、今泉VS御堂筋回になるともうなんていうか迫力に圧倒されて燃えるのと「ぽかーん」の中間。 (2015_3/5 0:15)   ていうか「黒子のバスケ」は、降旗クン大活躍回でなんか感動。いやーこの対戦展開リアル過ぎる!!自分的には火神や黒子やキセキ世代って結構理解できるんだが、多分降旗君のこういうプレイが黒子のバスケをリアルなバスケアニメにつなぎとめてるんだと思う。でないとNBA的な人達の集まるドラマになってしまうので・・・って、EXTRA GAMEがそれまんまじゃん!逆のリアルさだよなぁ。スポーツ漫画ってそのスポーツを丸ごと描くから凄い。 2015_3/5 0:19)

◎ 成田亨作品集にも載っている現実化しなかったヒーローアニメの企画で「MU」ってのがある(昔の道玄坂センタービルギャラリーの個展当時は「天空人」として発表されていた)。   その中で主人公ヒーローのMUが変身した飛行形態というのがとてもカッコいいデザインだったりするんだけど、なんていうか、あれって成田氏がデザイン&美術監督をしていた「ウルトラマン」の裏番組だった「マグマ大使」へのオマージュなんじゃないか?って気がずっとしている。   同じ時間帯の裏番組で同時に作家的展開をしていた成田氏の中に、手塚治虫氏への意識がなかったとは言い難いし。まぁなんていうか、アニメ化した時の線くらいは若々しくないとキャラとして立たないし、アニメは集団作業なのでなかなか難しいものがあるという判断だったのか、それとも成田キャラが円谷のウルトラマンに似てるので、キャラ展開がしづらいという判断なのか、と企画通らなかったと聞いた時には色々思ったりはしたけど。
  ていうか、ウルトラマンやセブンのデザインは成田氏の着想発想による成田氏のものなので、他の成田ヒーローがウルトラマンのような鼻や口だろうが、そんなの成田氏の勝手じゃんと僕は思っている。例えばヒューマンの鼻と口がウルトラマンに近いアルカイックスマイルだろうが、そんなのデザイナーが同じなんだから当然なわけで。   ていうか、あの鼻と口とか、スーツシステムとか、ウルトラマンの専売特許であるように言ってる馬鹿連中がいるけど、全然違うよね。あれは成田氏のデザインラインであって。ていうか、成田氏がウルトラの中に投入したデザインの記号としては、ウルトラマンの目のダイヤカットとか、銀と赤だけのシンプルな身体とか、セブンの6角形の目とか、それでいいじゃんと思う。あの鼻と口までウルトラのものだという悪質特撮オタクの旧来の主張って何それと思う。   だから本当は、成田亨氏の生徒(本当は鬼手伝いの原型では一番日数手伝ってて、弟子と名乗っていい事にはなってるんだけども)としては、別に僕があの鼻で口でアルカイックスマイルの成田系デザインを今後書いたって全然構わない・・・わけなんだけど、そこは僕自身が「意地っ張り」なので、自分自身のデザインライン上と整合する形のものしか発表したくないってだけ。   つまり、あの鼻とか口のアルカイックスマイルは、本当は成田氏を継ぐ側が氏の死後デザインすべきだったのであって、ウルトラの専売特許じゃないよ、って僕は言いたかったわけだ。だからと言って悪役顔でそういうのが出てくるとちょっと僕としては客観的に見ててへこむんだが(笑)。まぁインディーズに近い映像でもウルトラマンに近いキャラなんて一杯出てくるので・・・  そこはバンダイや各業界は解っておいた方がいいと思う。今の情況って、成田氏の生徒連で、業界人になってる人が殆どいない(もしくは別のプロダクションに吸収されてしまってる)からこうなってるだけなんだ、って事。そこまで至るには僕がひどい目に合ったようになかば暴力的なあれこれあったんだろうけど。   ・・・僕も、僕と一緒に大江山の鬼モニュメントの造形手伝いを頑張ってた渋谷教室の若い生徒たちの事(僕もかなり若かったけど彼らも同じ位若かった)、ほとんど彼らの名前出してないし。

 ※ 大江山の鬼モニュメント手伝いだった成田教室の人達を以下ざっと。生徒は全員ボランティアで、昼間はお酒呑みながら、流里先生の作ったお弁当食べてた。おいしかったです。(一応成田氏のボランティアスタッフ名は「鬼工人」となっている。)      生徒による粘土原型、石膏型 FRP型手伝いは酒呑童子のみで、星熊、茨木は大学だかプロの彫刻科系の人だったはず)   ・ 僕(森本浩司) 粘土・石膏・FRP。後半で衣部分チーフ。当時日野教室生。漫画アニメ等2次元系志望って事で生徒になってた。    89年秋の開始時から月水金の週3日手伝いで、90年の1月後半か2月頃?から週2回手伝いになったりもした。酒呑童子の 原型時点の合計手伝い日数は41日以上くらい。入りは大体9時半から10時の間~6時終了。(先生は開始は手伝い一人いればできるのだが、終了は手伝い二人欲しいと言ってたので週3日手伝いの僕は開始時刻は気にしなくて良かった)    しかし、実は金曜日の手伝いのみ、とある事情で午後6時までの所を午後5時に切り上げていたので、手伝いノートの記録では金曜の手伝いが無かった事になってるはずで、それを込みなら50日前後行ってる筈。(これはあまりにも僕が成田氏と一緒に仕事してると、他の生徒の嫉妬が激しいという、渋谷教室の手伝い仲間の意見を入れて、無理やり手伝い日数が少なかった事にした。先生は「妙な事やるのぉ!」と言っていたが、実際それなりに軋轢はあったんだよ、先生・・・・・・)     僕は日野プレハブ内の酒呑童子粘土→石膏→FRP原型の作業までで、金銭的都合で、京都の作業には参加していない。   ・ I橋くん。僕の1週遅れで成田教室に入った人物。担当は僕とほぼ同じで週2日?の参加。ドラマやCMなどのセット美術を志望していたが、過去に書いた理由で教室生たちに失望して90年秋頃に美術教室をやめている。でも鬼彫刻の手伝いは本当に頑張っていた。日野の教室生徒で僕の次に手伝い参加日数が多かったのはI橋氏。京都でのブロンズ製造作業にも約一週間参加。   ・ I田氏。 渋谷教室。僕と同じ?くらいの年。特撮造形志望だったので、粘土原型では主に酒呑の「髪の毛」担当になった。初期はまだ骨組みに粘土が付いてなかったのでそちらの盛り付けもやってたんだが、東宝で当時やってた「ゴジラVSビオ●ンテ」の造形スタッフにも入ってたみたいで、鬼手伝いが89年度中は週1日で金曜日のみだった。石膏やFRPにも当然詳しいが、彼の参加日数の都合で原型過程のスケジュール遅れも意外とあった。だから日野での手伝い日数は僕に満たない。    が、90年になって暫くたつとビオ●ンテの仕事が終わって彼の鬼手伝いが週2回に増え、結果僕はちょっと楽になった。石膏やFRPも担当(それは後半手伝いしてた人は皆やっている)彼は酒呑のFRPが京都に運ばれた後、京都でのコンクリ台座などの作業を数十日近く(?)最後まで詰めて手伝いに入っていた(ブロンズ製造作業も含む)。台座作業は当然プロの人々もやるわけだが、彼らと一緒に仕事するってのは相当な修行だったろうなぁと思う。通算手伝い日数はI田氏が最多。   ・ T笠氏。僕と同じか1歳下くらい。渋谷教室。週2回くらい?の参加で、彼も造形志望だったが、彼の場合ガレージキット系志望だったんだろうか?後(92年前後?)にI田氏と組んでワンフェスの「鬼工人」(大江山鬼スタッフ全員のスタッフ名称)ブースに成田系ガレージキットで参加したりしていた。粘土原型では主に腕や足など筋肉露出部分の造形を成田氏とともにやっていた。彼は酒呑のFRPが京都に運ばれた後、京都でのコンクリ台座とブロンズ製造作業などの作業手伝いに入っていたが、諸事情で最後の最後まではいられず、途中まで。   日野と京都の通算手伝い日数はI田氏に継ぐ2位で、3位が僕。   ・ サトウ氏。渋谷教室。週1の手伝いで僕と担当はほぼ同じ、僕より1歳かそこら年下なんだけど、素直で優しい好青年。特撮系のほかアニメやコミックなどにも結構詳しい。僕とリアルタイムでのアニメやコミックの会話が合ったのは、成田教室ではこのサトウ氏くらいだった。   ・ 坂●氏。渋谷教室。週1日(か2日?)。手伝い人の中では30歳に近いので日野教室生よりも年齢が上。会話大好き人間だが特撮愛(特に成田作品への)はすごかった。僕と一緒だと会話が止まらないとかみんなが言っていたが、僕の手は止まってなかったよ本当に。坂●氏も・・・止まってなかったと思うんだけどなぁ。サトウ氏や坂●氏がいないと粘土も石膏もFRPも、埋まるべき所が全く埋まらなかったと思う。   ・ 渋谷教室のリーダー格の人。大体週1回だけどFRP作業などの終盤には週2回近く? リーダーらしく人をまとめるのが上手いし、先鋭な所もあるので彼より年齢上の人もみんな付いて行ってた。仕事内容は僕と同じだけど、意外と写真やビデオなど撮っていたり、そういう担当もしていたように思う。僕が成田教室に入ったのは、89年の個展の時の「君も来ればいいじゃん」という、この渋谷リーダーと日野リーダー達の言葉がきっかけ、ではあるので、感謝はしている。
  ・・・で、一番最初に成田氏が「弟子」発言したのは、僕と一緒に飛行場に金属製ハニカムを取りに行った時の成田氏の言葉が発端だったんだが、その2~3日後I田氏とT笠氏と、3人集まった手伝いの時に、3人が「弟子」扱いになった。で、日野プレハブ作業の終盤では上の、サトウ氏、坂●氏、(とI橋氏と渋谷リーダーの人)が弟子と他人に言ってもいい事になった。が、渋谷教室内ではどうもI田氏とT笠氏に対する嫉妬が凄かったらしく、弟子と名乗るのを辞退しようもしくは辞退しろよ云々という話が持ち上がったらしい。それでみんなに「そう名乗ればいいじゃん!!」と言っていた僕が孤立化したんだが。
   日野教室で、日数的に僕とI橋氏についで鬼手伝いをしていた人々。(一応、成田教室は日野教室から始まっている。彼らが同じ日野の某高校の美術部で、日野に成田氏が住んでいた所から始まったので、各プロへの志向性を持つ渋谷教室の人々とは違うが、実力の差異とはそれは無関係。基本的に日野教室生は本職持ちの人々なので、仕事を休める日のみのランダム参加になっている。   鬼制作のプレハブ手配や、最初の土日での骨組作り(酒呑の骨組は手伝い予定者達で1日で組んでいる)、必要な彫塑粘土、石膏各種、グラスファイバー、FRP、などの調達してきて、時々持ってきていた。。あとは最後のFRP組み上げ時にそろったけれど、そこまでは基本的に仕事を休めた時のランダム参加だった。    日野教室の鬼モニュメント参加者。   ・ Y岡氏。 プログラマー職。89年はそれほど手伝いに来てなかったんだけど、90年になると忙しい時間を割いて、結構手伝ってくれた。最後京都まで行って手伝った事で、総手伝い日数が20日オーバーになってた筈。   ・ W松氏。魚屋さん?89年時点からときどきマメに手伝いに来てくれてた。温厚実直で結構明るい。この人も結構頑張ってた。前半作業はY岡氏より頑張ってたかも。まぁ食品仕事なので、粘土はともかく後半の石膏やFRPはなぁ、ってのはあるかもしれない。    ・ N間氏。 日野教室リーダー。人間的に優しく温厚誠実で人をまとめる力がすごい。信頼できる人ではある。当時は確かIMA●ICA社員だったと思う。    基本的に日野美術教室は映画好きな人ばかりが揃っていたと思うがその代表的存在。仕事で休みが取れないのと、きつ過ぎるから、との事で、日野プレハブ内での鬼手伝い日数は骨組とFRP組み上げを抜くと数日行ってないと思う。多分背が非常に高いのと常日頃の本職がきついってのもあったんだろうか。ただ、京都での7日間のブロンズ製造は、日野教室の人々は全員手伝いに行っている(事でみんな弟子と名乗っていい事になったのだそうな)   ・ 某S氏。 プログラマー職。当時は病院の管制プログラムの仕事をしていた。日野プレハブ内での作業は、骨組参加と、最後の組み上げ参加以外、ほぼ途中の肉体労働はしていない。ただ、時折の材料調達持ち込みはN間氏S氏と日野の先輩達がメインでやっていたので、その点で重要ではあった人。この人も7日間のプロンズ作業には参加している。ただし京都で僕の名前を目録(の紙)から外すのを強硬に主張した人(それをY岡氏とW松さんが止められなかった)なので・・・今となってはなんともな。(僕が京都に行けなかったので)   (※後注: ただこれはオタク界業界どうこうより、美術界的に絶対やってはならない事だよなー。ていうか、僕は大学中退して、それでも当時的には業界目指す時間を、美術教室に当てるなり、鬼彫刻スタッフに当ててたわけで、それと同じ事(他を放棄してそこに打ち込む事)を他の人が出来たのかといえば、そうそうできない。一般人か教室生かを問わず、自分の時間を投じてボランティア参加できるか、っていうと。で、僕の場合大学中退した貴重な時間を賭してたわけだから、それを記述ではぶるなんて事は、一般論として駄目じゃん!!っていう。だからそれを京都で見てたI橋氏が絶望してやめちゃったわけで。彼は成田氏の弟子って肩書きが美術セットや家具デザイナーなどの方向にはいらないと思ってたから、弟子云々は自分は言わないと早々に決めてたみたいだけど。 ・・・僕はまぁ、あの50日以外に、2年間先生の授業受けれたので、まぁ2年1ヶ月間で160日で、約4日に1回先生に習ってたようなものなので、それで充分と言えば充分だったと今は思う。)  あと、僕が言うことじゃないが、油絵の実力はみんなあったと思う。   (当時僕は油絵はなかなかする気にならず(アニメやコミックには使わないし)でしたが。)    他、両教室手伝いの方々・・・   まぁ、そんな感じだったよね・・・って事で。まぁ色々思う所もあったけれど、日野教室があったからこそ僕が先生に習えたって所はあるわけで、そこは渋谷教室も同意するしかない所ではあったんだと思う。ていうか80年代から90年代の道玄坂の成田個展は、日野のN間リーダーたちの手伝いで成立していたのかもしれない。(I橋君のように絶望してやめた人もいるし、渋谷教室のI田やT笠に降りかかった軋轢も知ってるので何とも僕はいいがたくなってるが(いや2人にいわせると「7日間のブロンズ作業中なんで森本氏来なかったんだよ!日野の人達写真ばっか撮ってあんまり手伝わないじゃん」ってマジギレしてたんだが・・・) 「いや、I橋くんとかY岡氏らは手伝ってくれたのでは」と言うと・・・「まぁ・・・」と言ってたが)    まぁ、そのFRP→ブロンズに使われた鬼たちはその後「発見」されて成田展などで展示されたりしていますが・・・(でもプロ2人と成田氏が星熊と茨木作るのはものすごく早かったので、さすがプロって感じだったよなぁ。やっぱりプロってすごいと思ったよ)    そんな感じでございました、ございました・・・結局カイリ氏が言う「生前の成田亨氏と縁のありました全ての人に感謝します」ってそういう事なんだろうね・・・・・・うん・・・。     (僕は僕の主義どおりマイペースで頑張ればいいんだよそんだけのことだよ。とこんな場末ホムペで書いてみた。   2015_3/5 4:29)


◎  先日の深夜の林修氏の講義番組で手塚治虫特集をしてた。ていうかかなりベーシックな内容ではあったんだけど・・・今の子ってこんなに手塚漫画から遠くなってるのかと一瞬びっくり。   ・・・ていうか大人が「読んだ方がいい」として勧める手塚漫画が偏ってるのかもしれないんだけどね。 僕は「火の鳥」だったら、未来編、復活編、太陽編。他の漫画なら「W3」「日本発狂」「サンダーマスク」「七色いんこ」「ミッドナイト」「未来人カオス」。あと手塚氏は自作として大嫌いみたいだけど、「アラバスター」は怖いもの好きには結構染みるハードさがある。まぁアニメだったら「愛は地球を救う」のアニメとか「ふしぎなメルモ」「新ジャングル大帝進めレオ」「ミクロイドS」「ジェッターマルス」とかあげますが。  (2015_3/5 2:33)
  

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