◎ Eテレの「ニッポン戦後サブカルチャー史2DIG」を見てて、ヘタウマの回で思うのは、あぁこれって僕が小学校から描いてた「タマゴちゃん」だよなぁと思って、逆に「あぁだから僕はヘタウマにあんまり興味持たなかったんだ・・・」と思った。ヘタウマ作家っているのは解るし認めるけど、自分が今更小学レベルのヘタウマに戻ろうとはあまり思わない。
ていうか実はこれを描いてる以前の小学3年とかのクラスの図工の似顔絵でも自分はかなりデッサン的にリアルな絵を描いていた状態だったから、マンガ絵とデッサンって全然違うものなんだ、って事にはこれ描いてた小学当時も気がついていた。問題は僕が美術デッサンに走る理由が当時はあまりなかったって事で・・・。当時はマンガ練習本も簡単なのが出ていたし、でもマンガでいうデッサンってのは、現実の美術デッサンとは全然違うものなわけじゃん?全てディフォルメで。当時は特にそうだったんだよね。美術デッサン的マンガってのは、当時は子連れ狼などの「劇画」だったから。まぁ「愛と誠」とか「ローティーンブルース」とかも劇画っぽかったかもしれないけど・・・
というか、話を戻すと、ヘタウマじゃなく、プリミティブ表現としては近い実験を実は97年に「Eg(現E9)」ってB5原稿実験漫画同人でやっていて、あの頃の自分は結構「原稿をトーンと台紙の間にはさんでコピーでアミ稿作って、それを白紙原稿に切り貼り+トーンワーク」とか、モブキャラは下書きなしで一発描きとか、アフリカンアート系の線画をB5漫画の中に入れるにはどうやって?みたいな実験を意図的にやってたんだけど・・・まぁそういう「意図的」な表現って逆にあんまり定着はしない。(いや、僕はピカソの皿絵とかはすきなんだよ。先生は晩年のピカソについて「皿ばかり作りおって!」と言ってたけど、僕は結構好きだ(笑;))
で、絵でもイラストでもそういう実験癖ってのは全然抜けてないんだけど、僕にとって大事な事は作品作る上で独創的な多種多様な実験をし続ける事であって、固定した絵柄や作風を作る事とは限らないんだって事で。でも、実験スキルはそれなりに蓄積していくものだし。
まぁ、他の作家の人がヘタウマっていうワンアンドオンリージャンルを持ち味として持ってる事が認められる現代ってのは、いい時代なんだと思う。
でも僕的にそれを認めるかどうかにもルールがあって、「描き手の心が悪質であるがゆえに歪んだ絵しか描けない修練も一切ないヘタな奴のヘタな絵は絶対に僕は認めない」って事だ。そこは断じて揺るがないので勘違いなきよう。(2015_11/6 7:29~35)
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