2015年11月8日日曜日

こーじアンテナ!

○ 最近作業が非常に進んでてすごく嬉しい。僕の球体関節人形については、いわゆるリアル系フィギュアを作る上での不気味の谷はとっくに越えているんだけど、いわゆる自分が好きな女の子イメージのイチ集積なわけなので、その統合にものすごい時間がかかった気がする。
  ディフォルメで身体を作ると最初から決めてかかるとか、少女写真集の一少女を完全にコピるとか、そういうやり方ならまだ楽だったんだろうけど・・・実は球体関節人形って、筋肉のめりはりなくして、円筒に近いパーツのつながりー、みたいに作れば比較的簡単に出来るんだよね。少なくとも僕みたいに数年かける必要はない。
  でも結局僕がそうしたのは、やってみて決める以前に、最初のイメージが確固としてあったからで、でもそのイメージにパーツイメージの集積が追いつかなかったからに他ならない。
  例えば「身体の部分部分の端的イメージをパーツにどう落とし込むか?」と、「関節は球体にならざるを得ないとしてその周囲のパーツ端はどう処理すべきか?」とか、それをやったはずなのに「頭身変えなくちゃ」「パーツ長さ変えなくちゃー、あっまたイチからだな」とか・・・その連続ループの繰り返し・・・だったわけなのだった。

  まぁ月並みなセリフなんだけれど、人間の身体ってすごいものだと思う。恩師の成田亨氏の恩師の恩師にあたる彫刻家ブールデルは「人体は建築的構造である」と言ってたそうだ。僕はそこまでの実践を今回する気はなかったけれど、それはやっぱり題材が少女なのに建築的構造探求をするのは、少女ってもののほのかな情緒とかそういうものを大事にしたいと一応はそう思ってたからだった。いずれ作家として徹底的に作りこむことを要する時にはそういう構造論で手作業すべきだけど、僕は構造は頭の中でシミュレートしながら、表面作業の盛り削りで作る事を今回は選んでった。なんだかんだで結局ほのぼのした印象になってくれるなら、それでいいんだけども。(いや充分ピーキーだよ・・・本当に・・・)
  いや、話を戻せば、人形作家でもフィギュア作家でも、現状軟質樹脂のシリコン人形でもない限り、完全な人形なんて作れない。球体関節ってのはアンドロイド(女性なのでガイノイド)に通じるけど・・・生きて動いて心があって笑えて涙できる人間の身体ってどんだけすごいか、ってのはやっぱりありありと解るよね。
  僕は人形作ってても紙の上に絵を描いていても思うけど、創作作業のは絶対に破壊とは魔逆のものだと思っている(前も書いたが)・・・「創造は破壊からしか生まれない」と言う論理があるけれど、あれは嘘だ。むしろ「作る作業をしていく過程で、何か既存システムみたいなものが壊れていく」みたいなものはあるかもしれないとは思う。

  ・・・同時に思ってる事、ずっと僕の頭でループしてることがある。
  僕がよく歩いてる通りのトランクボックスで大阪の看護師さんの遺体が発見された事は前に書いた。あの事件は近所の小中学校の子供達の心に本当に深い傷を残した。犯人の日系ブラジル人同級生とやらは中国に逃亡してまだ捕まっていない。憤りを感じる。
  そしてまた、小平市(僕がよく中古玩具を譲ってもらった古玩具店の近く)で、また看護師の女性が殺された。交際相手の男に殺されて。どちらの看護師さんの名前もリカっていう名前だった。
  僕が悔しいのは、彼女たちは子供の頃から、間違いなくリカちゃん文化の中で育っていて、おそらくリカちゃん人形遊びも普通の女子とはちょっと違う心境で遊んでいただろうという事だ。普通の子よりとても近しくリカちゃんと遊んでいただろうと思う。
  リカちゃん人形遊びっていうのは、「女の子のやさしい心を育てるための遊び」でなおかつ将来の夢を育てるための遊びだから、リカちゃんはお店屋さんごっこや色んな服や店舗をシリーズにしている。でも昭和40年代から変わらないリカちゃんの職業ごっこは、やっぱり看護婦さんだった。
  つまり殺された子たちは、リカって名前で、リカちゃんシリーズで理想の職業だった看護師さんに、努力してなって、おそらく看護師さんだからキリスト教式に戴帽式もしている・・・そういう、いわば「タカラ乃至着せ替え人形文化の理想をリアルで体現しようとしていた女の子」だったんだろうな、って事だ。それは女の子なら不可避な思考だろうから。リカちゃんってのは日本の女の子にとってそういう文化だ。
  そういう女の子が殺される行為が、立て続けに起こっている、最初の事件では彼女をトランクボックスに入れてた箱には人形とまで書かれてた。それはどうしてなんだろうとも思う。ふっと思うのは2chを開いて左にある「人形板」表記が「刃物板」のすぐ上にある、その悪意と似たようなものなのではないか?って事だ。
  無抵抗な心優しい、社会的に必要とされる少女たちを、暴力を愛する快楽主義者が殺す。時には猟奇好きの女たちが漫画で美少女をいたぶる作品を描くように、現実に女性が女性をいたぶり殺すケースすらある。
  僕は他人の猟奇的なだけの作品は、本当に嫌いだ。いわゆる犯罪や事件をアニメやコミックや小説で扱うには細心であるべきだと思ってる奴なので。
  僕のドールコレクションページのタイトルは「Dolls Be Ambitious!!」(人形よ大志を抱け)というけれど、その精神はもう・・・昔から変わらない。多分僕にとっては一貫テーマの言い換えなんだろう。
  
  ・・・・・・海外のイスラム圏で性奴隷にされてる少女について報道がされてる。僕的には絵を描く側としてあの少女の美しさというものを素直に描くことで彼女らの美しさや人権を表現したいと思ったり、したのだが、けれどもそのせいでそういう少女らがどんな目に会うかと思うとそれすらできない、描いた所でそれは表に出されないものになると思う。僕の場合。
  結局の所、イスラム教の価値観に問題があるのなら、それは他のイスラム圏もこぞって改めなくてはならない。でもキリスト教の価値観に問題がある場合も同じでしょ?
  どんなに怒っても嘆いても自分の無力を悔しいと思っても、彼女たちを救えるのは結局は戦略と武器と戦力である、のかもしれない。それは峻厳かつ電光石火の一撃必殺でなければならないだろう。けれども僕なら彼女らが生きている方を選ぶ。仮に性奴隷にされているとしても、相手の男が責任感のある男である事を望む。女子供に暴力を振るう男が最低の下衆なのは日本もヨーロッパもアメリカもイスラムもアジアも変わらないと信じる。
  さらわれた女の子を性奴隷にするか妻にするか、ないがしろに扱うか大事に扱うかは、結局、買った男の心の問題だ。そこを全世界で徹底的に糾弾するとしても、結果少女の命が危険になる。電撃戦が可能ならいいが、そうでなければ交渉を延々続けるしかない。(ロシアもそろそろ甘い考えから目が覚めるだろう。あれで覚めなきゃアホだ。)
  いずれにしても少女たちを買った男がマシな奴か非道な奴かで彼女らの運命はまるで違うという事だ。実際彼女たちが国外に買われれば全然彼女たちは救われるだろうけど、今それすらも糾弾する奴らがいる。
  ただ、イスラム教の一夫多妻について・・・僕は12月24日生まれなのだが基本的に恋愛は自由であるべきで、子供が出来た時には男は責任持って女性(女の子)と一緒に子供育てるべきだ、と思う主義だ。だから僕は好きなら誰と子供が出来ることになっても結局はそれは結果論の運命なのだとは、思う。
  誰と誰がマッチングするかが、境遇と運命論で決まるような社会なら、どこの国でもどういう妊娠出産でも同じ事だ。そこに結婚があるかどうかすら、結局文書上のもので精神的には神だの仏だのその人が信じる神に誓約するしかない。だから僕は連中には「殺すな」と言いたいだけだ。性奴隷などとみんな言ってるが、女として扱う以上ちゃんと愛して生かしてみせろよ、って事。
 (僕的に「名前の研究」をしてきた結論で・・・つまり「その人(僕)と生まれる前から交際する事が決まっていたパートナー」が誰かという事は、僕の今回の人生での目的次第であり、誰かが他人に奪われたり死んだからといって・・・その子以外と絶対に結婚してはならない、という事ではないという事だ。でなきゃ自分と会う前の女の子が他人にヤられてた場合、絶対に結婚できないだろ?そういうのじゃないわけだ、結局。それは僕ではなくて他の男に騙されながらも身体を捧げた僕の知人の女の子たちを見て、僕が悟ってしまった事だ。日本でも似たような事は、僕にとっては日常で起きてきた)。

  そういう意味で、報道された少女らが生きる事が、彼らの論理に染まらなければならない事だとして、子供を産んで母親になるとして、その運命を負わされた女の子たちが、結局どうなれば幸せなのか?っていうのは、結局女の子らがいつか選べる状態にならなきゃならないし(敗戦後の日本女性のように)、それが帰国する事ならまだいいが、男や子供とそれでも一緒に暮らす事を彼女らが選ぶ場合もあるだろうし。

  ただこれだけは言える。・・・数日前検索していた時、暴力で惨殺された女性の遺体をみたけれど、その顔は本当に美しかった。暴力や理不尽で殺されたからって、その女性の精神を忌避する心理は間違いだ。僕は虐殺された美しい精神が肉体をもって再生する事を願う。それは僕が作品作ってる理由でもあるしこのサイトを作ってる理由でもあるし・・・。そして、死んだ少女たちにすら再生を望むのであれば、生きてるのに死にかけてる少女たちに可能な限りの再生を望んで何の問題がある?って事だろう。   (2015_11/8 6:28)



0 件のコメント:

コメントを投稿