○ ていうか、僕は幼児期から絵を描くのがすきだったし、小学生の頃から美術作品もいいなぁと思ってきたし。プラモや造形も好きで、漫画やデザインを描くのも好きだしアニメも好きだった。だから成田亨氏の教室に行ったわけで。で、そりゃ生徒だったし鬼工人では弟子扱いだったのも事実だけど。
でも僕自身は、どちらかというと少女漫画とか人形も好きなわけじゃないですか。子供の頃の初心だとかセンスとか、少年期の西洋美術に憧れる気持ちとか、先生の所に行くまでの成長過程を大事にしたいと思ってるんだよね。
で、これだけ長くやってれば、あぁこのヒーローデザインは先生のあれは越えたなとか、そういうのもあったりはする。でも、やっぱり先生はあの時代の中でああいうデザインをしてみせた、それがすごいわけだし、僕はかなり整除されてクリエイターの人達でもやっていきやすい時代にデザインとかをしてるようなものだから、今僕がいいデザインを出来ているとして、それだけでいいって事じゃないんだろうなぁ、と思ってはいる。先生も昔描いてた気がするが「時代なりの」努力ってのは大きいのかもしれない。
でも、世間一般論として、美術作家の弟子ってのは、作家が職人的な工房などを構えてるのではなくて、教室を開いてたりした場合に生徒とか弟子とか言う場合、その生徒や弟子が年を取って「わしはあの作家に弟子と認めてもらって頑張ったんじゃよー」などとよいよいになりながら死んでくって人は普通にいる。
で、その人の作品が素晴らしいかそうでないかなんて、作品見た人が感動するしないでしかなく。それにある人はものすごく感動するかもしれないけど、他の人は全然感動しないかもしれないじゃない?だから、「感動しない人がいる」ってネガティブのケースだけでは駄作扱いにはならないんだよね。
何を見たって感動できない病気の人だっているけれど、そういう病気の人を基準に美術作品の良し悪しを決める事はできない。
ところがこの世の中ってのは、要は「感動した」という人がネットや社会で力を持っているかどうかで作品の良し悪しを無理やり決めているところがあるじゃん?勢力ってのがある。でも先端的なものをいいという人々はいつも少数派だし、時代に埋もれたいい作品を発掘できるのも実は少数派だから・・・。
名作駄作を人が票で決めるとか・・・実は全く意味がない。本当に無意味。
だからどっかの作家の弟子が老いて作品をいくつか残しながら「わしはあの作家の弟子だったんじゃよー」と子供に事実を言いながら死んでくとしても、言われた子や孫に対してそういうのを殊更否定するようなネットメディアであっちゃいけないよな、って思う。しかもそれを作家にも弟子にも縁のない第三者が勝手に決めたりとか許されるわけが無いです。それはネット時代の暴力でしかない。僕個人は文化ってのは暴力の対極だと思います。芸術ってその最たるもんだと思うのですが・・・まぁ暴力的アートってのもあるけどなぁ・・・うーむ。 (2016_2/2 18:36)
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