2015年1月25日日曜日

こーじアンテナ!

● 児童ポルノ出品を黙認の疑いでアマゾンジャパンを家宅捜索
  ショックなニュースというか、かなり裏がありそうなニュース。ていうか愛知県警もかなり危ない橋を渡るなぁというニュース。   というか、Candy Doll系(ドール製作者は結構参考にしてると思う)がネット上で問題になったのはアート畑の人でも知ってる人は多いと思うんけれど、実際あれは児童ポルノ扱いにはなっていない。その辺も踏まえた上で今後読んで欲しいんですが、   愛知県警がこういうポルノ関連で動いているのは、前に某展覧会で、木村伊兵衛賞を取った鷹野隆大氏の作品を県警がわいせつ認定した為に、一部に布をかぶせて展示した件以来、あそこ(県警)が妙に元気づいているような雰囲気なんだが、   ・・・実は数日前に、自分が予約していたJock Sturges氏(以下、スタージス氏)の新作写真集「Fanny」(洋書)の予約が、自動で勝手にキャンセルされているという事があった。そして何か怪しげな「キャンセルされた理由についてのレビュー」が書かれていた。   これだけでも今のアーティスト系志望の女子たちは、かなり驚愕する事だと思う。一体何が起こっているのか?と。   (※ ちなみに僕はamazon.comで日本人少女のヌード写真集を買った事は一度も無いので、念の為。)
  ていうか、ここを見ているアート系やコミック作家を目指す女子(高校生含む)でスタージス氏の写真集を知らない人はいないと思う。フランスなどのヌーディストの家族の写真をずっと撮り続けている写真家の方で、アート、コミック系の紹介兼テクニック誌にも何度も作品が掲載されているから、女子のクリエイター目指している人はみんな知っていると思う。   大体の人は知ってる筈だけど、Jock Sturges氏の作品は、あの児童ポルノに厳しい欧米でも、れっきとした「芸術」であると米国の裁判で認められている。これは90年代の事で、裁判の一事不再理によって、スタージス氏の写真集は、つまりはその後も国際的に芸術だと認められた。   芸術というものは、それを作った人(人々。この場合、写真家とその周辺、およびモデル)の心情(動機。初発動機)によって、芸術だと認められているのであって。・・・つまりはどこの国家の中であろうと「芸術は芸術」だという事である。コミケにいるようなどこかのエロ業界のクズオタクが「芸術ではなく自慰用のものだ」と言おうが、芸術は芸術でその意味や意義は不変かつ普遍である。   同じ作品が、米国では芸術だが、日本ではポルノだ、などという事はありえない。   (※法的に重要な言い方をすれば・・・まず、米国で芸術だと認められているものは日本でも芸術であると、著作権的に言う事ができる。日本の著作権は米国ではなかなか認められないが、米国の著作権は日本でも有効なので。(上位下位があるから)・・・これ、結構ややこしいんだが)
  話を戻すと、実は僕が予約していた写真集「Fanny」は本来2年以上前に発売予定だった写真集で、僕は「もしamazonで入手可能なら予約しておいてそのまま入手したいな」と思って予約したんだが、その後発売延期が度重なって、結局今の時期まで発売されず、いまだ入手できない状態だった。   それが発売キャンセル、しかも何かの横槍が入って、「芸術作品」であるにも関わらず予約キャンセルになってしまった事は、作品なり情報なりの世界的平等共有というwwwのインターネット思想から考えても結構異常なことなのだが、この話には続きがある。   「Fanny」のAmazon.co.jp上の販売ページは現時点で消えているが、その直前、amazon.co.jpのhttp://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/english-books/2568420051 つまり、エロティックフォトグラフィーの項目で、販売されていた。   これには僕はかなり愕然とした。スタージス氏のヌードは確かに少女のヌードだが、エロスだけを全面に押し出したものではない。エロティックフォトというのはぶっちゃけ正直18禁というか大人の性的嗜好を満たすもので、スタージス氏の写真は・・・なんていうか、もっと、普遍的というか、優しいというか自然回帰的なほのぼのしたもので、そういうものじゃあ無い。   にもかかわらず、そのカテゴリーでamazon.co.jpで販売されていた。ちょっと経って、今はそのページも消えている。(そのエロティックフォトの項目が海外製作の可能性もあるが、今一わからない)
  この手のことは以前もあって、例えばフランス映画の「エコール」に一部少女のヌードがあるからか、どこぞのショッピングサイトで18禁映画扱いされていて愕然とした事があった。エコールはミネハハ原作だが、根本的に文芸映画に近いもので、特にアダルト映画ってわけじゃ無い。感性に訴える映画だ。理屈で理解しようとすると難解ではあるけれど。   つまりそれもやってはならない事だ、本来。   前から書いてきているけれど、中学生でも裸婦像や裸婦画の美しさや製作理念を習うように(※義務教育範疇の重要な美術教育。)、本当に美しい芸術なら裸婦像やヌード写真であっても鑑賞の年齢制限は本来無いのであって、   それはとても大切な芸術文化だ、って事だ。
  逆に人間の精神の醜さという意味では文学では森鴎外の舞姫など読む価値も無い下衆精神を描いた作品だし、夏目漱石や太宰治でも語る値打ちもない醜い精神を描いた作品はある。それらよりよほど美しい精神を描いたマシな作品は・・・・・美術、芸術にはいくらでもある。

  ・・・で・・・・。根本的に美術でも写真でも女性男性問わず少年少女問わず、ヌードは普遍的に美術作品のテーマであり続けてきた。   しかしそのカテゴリーの中にある表現、しかも裁判で芸術だと認められた作家の表現を、Amazonもしくはその中の販売業者の扱いだけで、ポルノ認定してしまっている現在の状況は、極めて危険だと思う。これは本当に許されない。日本人の美術を理解する精神の有無についての世界的名誉にかかわる。   海外で芸術認定されている作品を、日本でポルノ認定する、しかも劣悪な児童ポルノと同等に扱うという事は、海外の芸術写真家に対しての、国際的な侮辱行為だ。   著作物というものには、ちゃんと製作者のテーマや意図がある。スタージス氏が裁判で芸術認定されているのに、エロだのなんだのと勝手にamazonがカテゴリーしたり、ましてや警察がポルノグラフィー認定するなんて、作品の著作性を無視している。絶対にあってはならない事だ。   日本人が危険なロリコンだと言われがちなのは、18禁コミックや18禁同人誌の海外への侵食などのせいであって、別に芸術写真のせいでは無いわけだから。   確かに日本国内で児童ポルノだと言われてしまったヌードもあるのかもしれないが、それらが必ずしもポルノ(つまり見る側を扇情する為の商業販売物)であるのかどうかってのは、深層的に全く別問題だって事だ。芸術の成立動機はそういう簡単なものじゃ無い。   一般的に、児童ポルノでは無いヌード作品を児童ポルノに無理やり認定して、入手ルートを無理やり潰すことで喜んでいるのは、けして公明正大な人物ではないと思う。   実は「幼女を強姦するタイプのエロ漫画を描きつづけてきたエロ漫画業界やエロ同人誌業界」が、美術的ヌード写真の頒布ルートを潰すことで、そのニーズを劣悪な性表現に引っ張ろうとしてきている事は前から書いてきたと思う。   今回もその可能性が極めて高い。でなければなんで、「amazon.co.jpからは売りません。エロティックフォトグラフィーから買って下さい」って事になるのか、って話だ。   はっきり言えば、この迫害的ムーブメントの裏にあるのは、「劣悪な性表現の自由を騙る側」による「高邁な芸術写真表現への嫉妬」であり、少女ヌードについての精神的訴求を全部劣悪側に引きずり落とす事だ。   あまりにもひどすぎる。作品の本質性を全く見ずに、勝手にカテゴライズして、更に勝手にプレミアだのの値打ちを色物として決めてるようにすら見える。   amazon側のやっている事で問題性があるかどうかは別問題かもしれないが、スタージス氏達についてはそういう被害をこうむってしまっている(他にもこうむりかねない写真家がいる)のが現状だ。   で、今回の愛知県警の件は、彼らの心ならずも、その劣悪側への味方をしてしまったケースになりかねないと思う。   (逆にスタージス氏の作品などが断じて児童ポルノだと愛知県警が言うなら、愛知県警は日本の国恥でしかない。)
  スタージス氏だけではないけれど、美しい少女ヌードを撮影してきた作家の存在は、アーティストやクリエイターを目指す少女(や一部少年)だった人達にとっての、一つの「精神的支柱」であるわけだから。  (ついにこんな酷い時代になってしまった。なのでこのテーマでしばらく更新してみる。 2015_1/25 4:40-5:12)


○ 僕がなぜ自作に殆ど色を付けなくなってしまったかの理由をさかのぼって考えてみた。   多分。多分なんだけど、僕がPCをネットにつないだ時に両親から「ネット販売方向への使用は可だが、クリエイターを目指すというのならPCのネット使用は認めない」という(当時の)厳命があり、   それはそれまでの盗作被害だなんだで僕が落ち込んでいたのと、その方向で今から努力に時間を割くのは当時の家庭状況的に認められないという両親の当時意見からだったんだが、   そんな中でも、いわゆるオリジナルデザイン系で僕に実力が無いというわけでは無いので、いろいろイラストネタのようなものは手元にたまったりしていて、   そんな中、俺デザインの「仮面ライダー・フロウ」のマウス画を描いて、描いてみたよとUPした日、成田亨氏が亡くなって。2002年の2月26日の事。   だってウルトラマンのデザインしてた先生がなくなった日にライダー描いてたとかさ・・・なんか、ね。
  なんだかんだ言って、それで自発的に色を塗りたいという気持ち、絵画を描くのに大事な要素が欠落してしまったように思う。   ・・・いや、違うな。もっと前からだ。   僕が写真が好きなのは、自然のままの色があるからだ。
  前も描いたけれど、一般的に言うコミックだデザインだなんだというのはほぼ白黒のペン画か鉛筆の線の作業だ。   例えばアニメでもキャラデザインメカデザインと、色指定さんは全く別の人が担当している。   形を考える事と色を考える事は本来一体のはずなのだけど。で、そこにとんでもないトラウマが自分の場合は、ひそんでいるんだと思う。   僕自身は僕のデザインはものすごいし実力あるし天才だと確信的に思うけれど、他人は僕のデザインは理解しないし必要ともしない。   必要というのは、経済の歯車に載った業界の作品群に乗らないという事だが。僕の作品でなくてもみんなを癒す作品やエロい作品はあるという事だが。   文章でも作品でも僕は僕を理解してとは思ってない。ただ、見た人が直感して楽しく嬉しく感動したり悲しくなる作品が描けたらなとは思っている。自分の中の意見の何かが伝わる作品とか・・・。でもそういう、送ってる筈のバトンを受け取られた印象が、僕には伝わってきていない。自ら光ると光の中では何も見えない。だから誰かの作品について感想書いたりする。   その寂寥感自体が、作品の色の無さに通じているのは、読んでるみんなも解ってる通り明確な事。逃げようが無い。   その色を取り戻そうっていうのたうちまわりが、いつになったら物になるのか、って旅ばかりな気がする。 (2015_1/25 6:15-25)
  ※ 僕の作品は極北だと思う。例えば成田先生のデザインや石森デザインや、例えば永○氏のデザインや出渕氏のデザインなどがあるとして、結局僕の作品はそれら一度広がった拡散線の終点、いきどまりだと思う。そのいきどまりが2000年前後として、そこからまた拡散分岐させる何かを作るっていうのを自分には意識的に課していたかもしれないし、そういうキリキリする作品が自分のデザインには多いはず・・・なんだが、その一度むすばれそうになったむすびめをもう一度ほどいて拡散させていく作業というのが本当に難しい、気がする。でも言うほどそこまで出来てない気もするので、そこが今後の課題って事に、なるんだろうか。 (1/25 8:42)

0 件のコメント:

コメントを投稿